豊作の稲穂が黄金色に輝きながらたなびいている秋の田圃の光景をちょっと想い浮かべてください。
なにかホッとした気分になりませんか?
"瑞穂の国"に生きる人間としての農耕民族の生命が自然に反応するのだと思います。
歴史をひも解いてみても、お米は、数ある日本の農作物の中でも、特別な地位にありました。
全国の祭りの多くは、豊作を願う心が産み出しています。
また、租税は米が主でしたし、産米の石高によって豊かさが示されました。まさに米は、"瑞穂の国"という呼び名にも表れているように、民族の象徴(シンボル)なのです。
現代の私達が考えてみても、大地に蒔かれたお米の種籾のたった一粒からたわわな稲穂の束が実り、千粒から二千粒もの新しい命を産み出すという米粒に内在する神秘の生命力には深遠さを覚えます。
と同時に、昔の人々によって精白する前の生きているお米の粒が"玄米"と命名されたことは大いに納得と共感ができます。
"玄"とは、深遠さと新しい誕生を表現する漢字だからです。
精白した艶のよい白米を『銀シャリ』と呼びますが、胚芽と表皮の糠を削っていない生命力豊かな丸ごとの玄米にふさわしい名称は、黄金色にたなびく稲穂に因(ちな)んで『金シャリ』だと確信したのです。生命力溢れる金シャリあっての銀シャリなのですから。
縁とは不思議なもので、入谷の金美館通りにある、創業百年を超えた金沢米店の三代目の砂金(いさご)健一と政美が、自然の恵みと農家の叡智の調和の結晶として、生命力豊かな田んぼの土で育った黄金色の美稲の健康な玄米に、金色の糸で結ばれた御縁と宿命を感じつつ、敬意と愛情をこめて"金シャリ"という呼び名こそが日本の食に占める、その米の地位にふさわしいと命名したのです。
金シャリ玄米屋というネーミングでおわかりのように、銀シャリ派の人たちにも生命力溢れる金シャリの美味しさや味わいに触れて、楽しんでいただきたいという願いを抱いています。
"砂金"姓のルーツは、宮城県の涌谷にあります。奈良時代、聖武天皇によって、東大寺の大仏の建立が進められる中で、大仏の表面をおおう金が不足し完成が危ぶまれた際に、天平21年(749年)に涌谷から日本で初めて産出した金900両(約13kg)が献上され、無事に大仏が完成したといわれる史実が涌谷にある『黄金山(こがねやま)神社』に記録として残っています。
その日本最初の産金地に因んだ姓が珍しい"砂金"姓であり、ルーツは、涌谷なのです。涌谷の浄土宗光明院というお寺に、砂金(いさご)家の先祖の墓があり、砂金姓の墓石が多数在ります。
私はこの世に生を受けたときから、父の家系に縁あって"黄金の国"日本のシンボルともいえる姓を名乗れる幸せに感謝しています。
同時に、その誇らしく思う心に恥じぬように、瑞穂の国の"金シャリ玄米屋"として、全国にキラキラと輝いて散在している綺羅星農家が手塩にかけて育てた金色に輝く生命力豊かな玄米のそれぞれの個性的な魅力を一人でも多くの人に食べ比べの中で味わっていただくため、金色の糸で結ばれた天命の生業と自覚して私、砂金健一は力を尽くしたいと考えています。
日本民族の生命と活力の源を担ってきた米を単なる経済作物とみなして、安い外国産の輸入米を食べればよいというような論調がいまだに絶えません。
それは農家自身の中にも経済作物としてのみ捉えているきらいが在る弱点を巧みに突かれているのです。
"身土不二""心身一如"と表現されるように「土と生命」「人間と自然風土」、「からだとこころ」は分かち難く一体なのです。
日本の全国に残る"祭り"は民衆の"五穀豊穣"を祈るこころをからだで表現するもので、地方ごとに人々が創意工夫を凝らして創り上げ伝承してきた民衆芸術文化の粋を集めた、助け合って力を合わせる暮らしに培われてきた"結"の精神、日本人のこころの発露としての伝承の儀式なのです。
だから、"祭り"では皆のこころが踊り、燃えるのです。日本人のこころの源を外国からの輸入に委ねていいわけがありません。
「薬食同源」「医食同源」という言葉は生きています。
"食"は命と健康の源なのです。その"食"の中でも、活動のエネルギーと日本人の心根を担ってきた"米"の存在は別格です。
『主食』という言葉が死語になりそうな気配がありますが、今のような時代だからこそ、食卓に"主(あるじ)"を復活させねばならないと思います。
その主(あるじ)こそが『金シャリ・銀シャリ』なのです。 |